So-net無料ブログ作成
前の5件 | -

変なのっ!国士無双の大将軍 韓信(2) [出合い系]

変なのっ!国士無双の大将軍 韓信(2)

蕭何と出合い系良縁、彼の推薦を受ける

ここでも実績も、背景となる勢力もない韓信(英語 Han, Shin)は一兵卒として扱われ、仕事に不満を持って仲間と一緒に罪を犯し、処刑されそうになります。

そこで「天下を取ることを望むのなら、この韓信を処刑するのは間違いだぞ」などと騒ぎたて、それが劉邦(英語訳 Liu Bang)の側近・夏侯嬰(かこうえい)の目に止まり、罪を許されます。

そして治粟都尉(ちぞくとい)という軍の食料を管理する仕事につけられました。

韓信がしたいのは軍を率いて作戦を立て、敵を撃ち破る仕事であり、食料の管理ではありません。

そこで韓信は蕭何(しょうか)(英語訳 Xiao He)という劉邦からの信頼の厚い人物に出合い談じ込み、自分にふさわしい仕事を与えてくれるように求めます。

蕭何はこの無名の人物と何度も話す内に、その身に他に並ぶものがいないほどの軍才が宿っていることを悟り、高く評価します。
しかし韓信が急に高い地位につけられることはなく、やがて劉邦の陣営にも絶望した韓信は、逃亡してしまいます。

この時の劉邦は巴蜀(中国の南西部)という辺境の地に追いやられていた時期で、韓信に限らず劉邦の陣営から逃亡するものは後を絶ちませんでした。

蕭何は他の将軍たちが逃亡しても何もしませんでしたが、韓信が逃亡したと聞いた時はこれを追いかけて説得し、劉邦の元に連れ戻します。

この時に劉邦は、最も大事な家臣である蕭何までもが逃亡したのかと勘違いし、慌てます。

そして戻ってきた蕭何を詰問しますが、蕭何は「韓信だから追いかけたのです」と返答します。

「他の雑多な将軍などはいくらいなくなっても影響はありません。しかし天下を取ることを望むのであれば韓信は必要な人材です」と劉邦に説明します。

この時に「国士無双」という言葉で蕭何は韓信を評します。

そして劉邦軍の中で最も高い地位である、大将軍に韓信をつけるようにと劉邦に提案します。

劉邦は信頼する蕭何がそこまで熱心に推薦するのであれば、と受け入れ、韓信を抜擢して大将軍の地位を与えました。

いくら蕭何(英語訳 Xiao He)を信頼しているとは言え、無名の人物にいきなり軍の最高司令官の地位を与えてしまう劉邦も、やはりただ者ではありません。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

変なのっ!国士無双の大将軍 韓信(1) [出合い系]

劉邦との出合い系ご縁で、彼氏に天下を取らせた国士無双の大将軍 韓信

韓信(英語 Han, Shin)は劉邦(英語訳 Liu Bang)と出合い、仕えて大将軍となり、楚漢戦争の勝敗を決定する重要な役割を担った武将です。
卓越した作戦能力を持ち、戦えば常に勝利をおさめ、国士無双(比べられる者がいないほど優れた者)と呼ばれるにふさわしい人物でした。
しかし劉邦が天下を統一して漢の皇帝となってからは、その能力と領土の大きさから警戒されるようになり、最後は謀反を企てるものの、失敗して処刑されてしまいました。

そんな彼氏の生涯の出合い系良縁、悪縁や事績との出合いについて書いてみます。


韓信は臆病な怠け者と見られていた

韓信(英語 Han, Shin)は淮陰(わいいん)という水辺の街の、貧しい家に生まれました。
家産がなく、品行もよくなかったために職につけず、毎日ぶらぶらとして若い時期をすごしていました。
やむなく韓信は亭長(街の治安を担当する役人)のところに居候をし、長い剣一本だけを携えて無頼の暮らしをしていました。
しかしある時、あまりにも何もしないで無為に日を過ごしていたため、とうとうそこから追い出されてしまいます。
韓信は食べるものに困って街中をさまよっていると、みかねた老婆に出逢い、ら食事を提供してもらい、それでなんとか飢えをしのぎました。
また、韓信はこの頃に「長い剣を持って強そうに見せているが、実は臆病者ではないか」と疑った街の少年にからまれます。
そして「その剣で俺を斬ってみろ、それができなければ俺の股の下をくぐれ」と脅されます。
韓信は言われるがままに少年の股の下をくぐり、剣を抜くことはありませんでした。
このために物笑いのたねになり、「股くぐり」と呼ばれ、臆病者だという評判を立てられます。
このように、韓信は戦乱の時代が訪れる前には、なんとも益体のない生活を送っていたようです。
しかし当人には自分の内に巨大な軍事の才能があるという自負があり、いつか風雲が訪れた時には世に出て活躍するのだ、という夢想を抱いていたようです。
このように、うだつの上がらない人物が夢想との出合いで自分を慰めるのはよくあることですが、韓信の場合は本当に巨大な才能を持っていました。


戦乱との出合い系ご縁と項羽への仕官

韓信(英語 Han, Shin)の若き日々は、秦の始皇帝が中国系の統一に初めて成功した時期に当たります。
しかしこの統一政権は長く続かず、始皇帝の死後に各地で反乱が相次ぐようになり、大陸系が再び分裂状態に陥って行きました。
韓信にとっては望み通りに戦乱の時代が訪れ、自分の才能を世に示す機会が訪れたことになります。
韓信はまず初めに反乱軍の中心的な存在であった項羽(英語名 Xiang Yu)の陣営に行って採用され、そこで警備兵の職を割り当てられます。
韓信にとっては満足のいかない身分でしたが、それにめげずに項羽に幾度も出会い、戦いの献策をします。
しかしこれが取り上げられることはなく、やがて韓信はむなしく項羽の陣営を去っていきます。
これには項羽が軍を奮い立たせて敵を撃ち破る猛将系タイプの将軍であったため、韓信の提案する作戦に心をひかれなかったこと、作戦面では腹心の范増(はんぞう)以外の人材を求めていなかったこと、などが原因になったと思われます。
もしも項羽がここで韓信を指揮官として採用するだけの見識を持っていれば、劉邦(英語訳 Liu Bang)との戦いの勝敗は逆転していたでしょう。
ともあれ、項羽の元では浮かばれなかった韓信は、秦が倒れて項羽が覇王となった後、辺境に追いやられていた劉邦に仕官します。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:資格・学び

しかし、曹叡の思惑通りには事は運ばなかった。 [まゆみの英語会話教材]

変なのっ!いろいろ

しかし、曹叡の思惑通りには事は運ばなかった。
ここをまゆみの英語会話教材で~
But things didn't make progress on an expectation street in Mr.Soue.
大将軍、曹真の息子である曹爽は、司馬懿を太傅(皇帝の世話役で、実際は名誉職で実権などない)にしてしまうと、曹爽は政治の実 権を握り、専横しはじめた。
その頃から、司馬懿は病と称して政治に関与しなくなった。
曹爽は自身の権力をさらに強化させるためにクーデターを計画したが、逆に司馬懿により一族もろとも誅殺されてしまった。
魏王朝最大の障害を除いた司馬懿は丞相に就任した。
これより、司馬懿の権威は最高潮に達した
ここをまゆみの英語会話教材で~
しかし、司馬懿は本当に病気にかかり、251年洛陽にて73歳で死去した。
But Shibai falls ill really, and Rakuyo has died of 73 years old for 251 years.
彼は猜疑心が強く、権謀に長じていた。司馬懿は雄大な志を持った油断のならない男であった。
司馬懿の死の12年後の263年。魏は蜀に侵攻、蜀漢皇帝・劉禅は降伏、蜀は滅亡する。
さらに2年後、司馬懿の息子達は、皇帝の位を目前に亡くなるが、後を継いだ孫の司馬炎は、魏皇帝・曹奐より禅譲を受けて 『晋』 を建国、さらに15年後には呉王朝を滅ぼし、三國を統一した。
こうして、三國志は終わる
劉家でも、曹家でも、孫家でもなく、まったく別の司馬家が中華統一を果たしたのだった…
余談だが、司馬懿がまだ若かった頃に孔明と同窓だったという話がある。
ここをまゆみの英語会話教材で~
It's a by-talk, but when Shibai was still young, I have the something to discuss that they were Kong-ming and attendance at the same school.
二人の師は一冊の奇書を持っていて、その本を良い弟子に受け継がせたいと思っていた。
ある日のこと師が二人の弟子に兵法を説いていると、突然裏山から樵(きこり)が転げ落ちてきた。
師は構わず講義を続け、司馬懿もそのまま話に聞き入っていたが、孔明は外へ出て樵を助け起こしてやったという。
またある時、孔明は「父危篤」という家からの便りを受け取った、孔明は即座に休みを願い出て泣きながら郷里へ帰っていった。
ほ どなく司馬 懿にも「母危篤」という便りが届いたが、なんと、司馬懿は返事を一通出したきりで片付けてしまった。
1年後、二人の師は病の床に伏し、二人が看病に当たったが、病は日々重くなっていった。
ある日、孔明が師のために山へ薬草を取りに行っている間に師は人事不肖に陥った。
一人看病していた司馬懿は素早く奇書を盗むと一目散に郷里に帰っていった。
師が意識を取り戻した時、ちょうど孔明が山から戻ってきたが、司馬懿の姿は見えない。
師は全てを察知し、寝台の下から本物の奇書を取り出すと孔明に手渡した。
「私が死んだら私の屍もろともこの家を焼き払い、何処か遠くへ行って、この書の奥義をつかみなさい」
孔明は師が亡くなると遺言どおりに事を片付け、南陽臥龍崗へ帰っ て奇書の精 読に励んだ。
司馬懿の方はというと、郷里に帰って盗んできた奇書を開いて見たが、中には「天下を治めるには民を愛し親に孝を尽くさねばならぬ。
 この二つが欠けていてどうして書を伝えることができようか」
と書かれていた。
驚くやら、腹が立つやら、司馬懿は人を引き連れて本物を奪いに戻ったが全ては灰となっていた。
ここをまゆみの英語会話教材で~
I'm surprised, and, an abdomen, I stand up, and, Shibai had taken a person and had returned to take the real thing away, but everything was ash.
果たして、この話が真実かどうかは定かではない…
司馬懿(179~251)は、諸葛亮(181~234)より二歳上であることを付け加えておく。
丞相であった曹操から、曹魏王朝4代に仕えるとともに、晋王朝の基礎を築いて、死後晋の宣帝と謚号された。


Presented by まゆみの英語会話教材
English bibliography 変なのっ!いろいろ
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:資格・学び

明帝死去 [まゆみの英語会話教材]

明帝死去
231年2月諸葛亮は祁山(きざん)に出陣し、まず隴西方面の収穫時期である麦を奪おうとした。
まゆみのえいご教材~~
Sho Katsuryo tried to take the field in keyama (Affected, oh.) and take the wheat which is a harvest time of the Rou western side first away in February, 231.
これに察知した司馬懿は、追撃するが諸葛亮の影武者に惑わされ帰陣する。
諸葛亮は、まんまと麦を奪う事に成功している。
つぎに、麦刈りの蜀軍を襲うが、孔明の神兵のからくりにかかり「神出鬼没の計」と嘆息した。
司馬懿は、孔明軍に夜襲をかけるが、諸葛亮が潜ませていた伏兵に背後を突かれ大敗、敗北し、態勢を立て直し再び攻めるが、強襲にあい敗走し、孔明に敗北するが、魏と呉が手を組んだという噂を流して、孔明を退却をさせた。
戦いでは常に孔明に先手を取られていたが、謀略では司馬懿の方が一枚上手だった。
まゆみのえいご教材~~
It was always forestalled by Kong-ming by a war, but Shibai was one-upmanship by a plot.
234年、諸葛亮は、最後の北伐を開始する。
対する司馬懿は、最初は孔明の木牛流馬(孔明の開発した輸送車)の 計にかかり、蜀の武将・廖化の伏兵にやられるが、渭水に陣をしき諸葛亮の策を見抜き大敗させた。しかし、司馬懿の偽投降させる作戦は、諸葛亮は見破り逆に利用し司馬懿を強襲し大勝する。
敗北した司馬懿は、祁山を襲うと見せかけ、上方谷の食糧基地を襲う作戦に出た。
しかし、孔明の命を受け、司馬懿を誘い出した魏延の罠にはまり、地雷だらけの陣におびき出されて、一族もろとも焼き殺されそうになるが、突然の雷雨で助かる。
まゆみのえいご教材~~
But it's trapped by gien which received the life of Kong-ming and asked Shibai out and is lured out to camps full of land mines, and, with a clan, it's nearly burned to death, but it's saved by a sudden thunderstorm.
(魏延も巻き添えを食らうところであったが、これは孔明が意図してやったのではないかという説もある)
司馬懿を殺せなかった孔明は大いに 嘆き悲しんだという。
両者の戦いは五分五分。
互いに譲らなかったが、諸葛亮が五丈原に布陣したとき、司馬懿は魏朝廷より持久戦をせよとの命令を受けていたため、諸葛亮が戦いを挑んでも決して撃ってでなかった。
しかし、孔明より婦人の装飾品を送りつけられた司馬懿は怒り、朝廷に決戦を願い出たが、司馬懿の部下達はこれを諌め、魏宮廷からの命令を徹底した。
そして、流星が諸葛亮の陣営に落ちてまもなくして、諸葛亮が病没し、蜀軍は退却をはじめた
司馬懿は諸葛亮の死を察知し追撃してくるが、諸葛亮の生前の退却作戦により逆に司馬懿が逃げ帰る形になった。
人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言い、司馬懿を笑った。
まゆみのえいご教材~~
People said "I make Shiyokatsu who can die and Naka and others who can grow run." and laughed at Shibai.
(演義では、孔明の像を作り、それを見て諸葛亮が生 きていると仰天した司馬懿は、慌てて軍を退却させたという)
諸葛亮孔明という最大のライバルを退けた司馬懿は、部下に後を任せ中央に帰還した。
孔明が死去した3年後の237年、遼東の公孫淵が反旗を翻した。
明帝より討伐の勅命を受けた司馬懿は軍を率いてこれを破り、公孫淵を斬り、襄平を平定した。
しかし、2年後の239年。

明帝は幼い子の曹芳(そうほう)の補佐を司馬懿と曹爽(そうそう)に頼み死去する(34歳)
Emperor of Ming asks to assist with souhou of a young child (way where I meet) with Shibai in sousou (immediately), and dies (34 years old).


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:資格・学び

司馬懿 八卦の陣との出合い [いろいろ出会い]

司馬懿いろいろ八卦の陣との出合い

帰還した孔明は、敗戦処理で軍の規律上止むを得ず馬謖を斬り、丞相の職を辞任。
右将軍に降格した…
まゆみのえいご教材>>The rule top of an army cuts Bashoku with loss processing inevitably, and Kong-ming who returned resigns from the prime minister's work.
... demoted for the right general
11月の第二次北伐では、司馬懿は前々から陳倉の要衝に目をつけ守将に郝昭(かくしょう)を当たらせた。
孔明は、陳倉を攻めるやいなや新兵器で、改良した「雲悌」や「衝車」などを用いたり新戦術を用いたりしたが、ことごとく失敗に終わり20余日たっても陥落できなかった為、斜谷(やこく)に進出したが、曹真が守りを固めていたので撤収した。
しかし、陳倉の郝昭が、重病だと知り奇襲作戦をとる。陳倉城を陥落させ入城するが、張包死去の報が入り退却した。
230年、これまで防戦一方だった司馬懿(英語/英会話の発音 Sīmǎ Yì スーマイー)は蜀を討つため、漢中へ出撃。
曹真、張郃らを従えて蜀へ侵攻した。
しかし、30日以上にもなる長雨が続き、戦線を維持できず撤収するが、孔明率いる蜀軍は、祁山で曹真を追撃してきた。
まゆみのえいご教材>>But the long rain from which more than 30 days have also passed continues, and the front can't be maintained, and I withdraw, but shokugun Kong-ming leads has chased after soumakoto in keyama.
孔明は、軍を二手に分け山越えをした兵と、敵兵を装った兵で曹真を討ち崩した。
また、諸葛 亮(しょかつ りょう)(英語/英会話の発音 Zhū gě liàng)はその勢いで武都・陰平(いんぺい)の二郡を攻撃させ平定した。
司馬懿は、孔明の進軍を抑えるため陣形の勝負を挑んだ。
孔明は「八卦の陣(はっけのじん)」をしき、司馬懿にこれを破れるかと申した。
もちろん、こんなことを言われて黙っている司馬懿ではなく、八卦の陣を破りにきたが破れず敗走、戦いは孔明の勝利に終わる.

しかし、策略では司馬懿は負けていなかった。
まゆみのえいご教材>>But Shibai wasn't defeated in a scheme.
司馬懿は降伏してきた蜀兵に「孔明が謀反の疑いがある」という噂を流させると、その噂は蜀の首都成都に居る皇帝・劉禅の耳に入り、劉禅は孔明を呼び戻す。
孔明は撤退を余儀なくされた。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ
前の5件 | -