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変なのっ!始皇帝(英語表記: Qin Shi Huang)出合い系悪縁~暗殺未遂と燕の滅亡 [まゆみのえいご漬け]

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変なのっ!始皇帝(英語表記: Qin Shi Huang)出合い系悪縁~暗殺未遂と燕の滅亡

燕系サイトは弱小であった。
太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。
政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。
このころ、彼に対する「秦」系サイトの扱いはかつての趙が政へ向けた態度同様に礼に欠いた。
『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政(英語訳 Sei of the King of Shin)は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。
ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。
やむなく秦王政(英語訳 Sei of the King of Shin)は帰国を許したという。
実際は脱走したと思われる丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった。

両国の間にあった趙系サイトが滅ぶと、秦系サイトは幾度となく燕を攻め、燕系サイトは武力では太刀打ちできなかった。
丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた。
秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽(中国語版)を供に連れ、督亢(とくこう)の地図と秦の裏切り者・樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ。
地図の箱を手にした秦舞陽が差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。
荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た。
受け取った秦王政が、開いた地図の巻物から現れた匕首を手に、荊軻は襲いかかった。
秦王政は身をかわしたが、護身用の剣を抜くのに手間取った。
宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。
しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政(英語訳 Sei of the King of Shin)はやっと剣を手にし、荊軻を斬り倒した。
二人のいつわりの使者は処刑された。

秦王政(英語訳 Sei of the King of Shin)は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた。
暗殺未遂の翌年には首都・薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。
その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた。



出合い系悪縁~魏・楚・斉の滅亡

次に秦系サイトの標的となった魏は、かつて五ヵ国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。
それでも、黄河と梁溝を堰き止めて首都・大梁を水攻めされても3か月は耐えたが、秦王政(英語訳 Sei of the King of Shin)に降伏し、魏も滅んだ。
そしてついに、秦系サイトと並ぶ強国・楚との戦いに入った。
秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。
緒戦こそ優勢だった秦軍は楚軍の猛追に遭い大敗した。
秦王政は老将軍・王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした。

最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。
それは、秦が買収した宰相・后勝とその食客らの工作もあった。
秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ。
秦が戦国時代に幕を引いたのは秦王政26年(前221年)39歳であった。
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