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毛沢東(5)第一次国共内戦、日中戦争 [まゆみのえいご教材]




第一次国共内戦、日中戦争

国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始する。
この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。
毛沢東(英語で Mao Zedong)は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。
>>>ここを英語で
But Mao Zedong was taking the real power away from Zhou En-lai, and Mao Zedong took the position of supreme leader on the military affairs for Zhou En-lai by a decision in the center clerk place on August 19.


1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。
同年12月7日、朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。
5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築。翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。

1937年7月7日に始まった日中戦争では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。
しかし、日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍であった。
共産党側は、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存して、共産党支配地域の拡大に傾注したのである。
この時期、毛沢東(英語で Mao Zedong)は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。
なお毛がまとめた『持久戦論』では日本軍の戦略を「包囲は多いが殲滅が少ない」と批判している。
毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。
>>>ここを英語で
Mao Zedong heard the news that the Japanese military made Nanjin surrender, was delighted, drank and overwhelmed Ozake at Enan.

毛沢東(英語で Mao Zedong)は裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。
延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた。また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた。
中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。
毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次大将総本部の人物であった。
>>>ここを英語で
Mao Zedong's agent was the figure of Okamura Yasuji general head office in Nanjin.

1938年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。
1940年には『新民主主義論』を著して新たな中国の国家・社会論を示し、中国共産党を中心とする未来の政権構想・社会建設構想を表明した。

遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東(英語で Mao Zedong)だったが、1942年からの整風運動によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。
1943年にはソ連留学組だった中央書記処総書記の張聞天を排除し、同年3月20日、中央政治局主席兼中央書記処主席(事実上の党主席)に就任して党の最終決定権を獲得した。
1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東(英語で Mao Zedong)は党の最高職である中央委員会主席に就任した。

毛 沢東 part 4 中国共産党創立 [まゆみのえいご教材]




毛 沢東 part 4 中国共産党創立

中国共産党創立1921年7月23日、毛沢東(英語で Mao Zedong)は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。

1923年6月、第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。
>>>ここを英語で
It was chosen as 1 person inside 5 commissioners of Executive Council of Union (the present central committee) by a party conference the 3rd time in June, 1923.
この第3回党大会では、コミンテルンの指導の下、「国共合作」の方針が決議された。

9月、毛(英語で Mao )は、共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織した。

1924年1月、第1回国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選出された。

同年、毛(英語で Mao )は国民党上海支部の幹部(組織部書記)となった。

毛は指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。

毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。
>>>ここを英語で
Hair was left in Shanghai the Communists emphasized as an important city of a revolution for a while.
しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。

党は困窮し、毛は革命に幻滅を感じて韶山に戻ってきた。

自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。

毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。

1925年10月、毛(英語で Mao )は国民党中央宣伝部長代行となった。

1926年12月に長沙で開かれた労働者と農民の代表大会に出席するために湖南省に戻っていた毛沢東は、翌年1月から2月にかけて、湖南省における農民運動の報告書を作成した。

これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛の革命理論の構築の初期段階と考えられている。


毛沢東(英語で Mao Zedong)は国共合作において重要な役割を果たしていたが、1927年4月12日の上海クーデターで国共合作は崩壊した。

その直後の4月27日から5月10日にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。
>>>ここを英語で
Hair was elected by a central committee candidate commissioner by the 5th time party conference held from April 27 just after it to May 10.
8月7日、漢口において開催された党中央緊急会議(「八七会議」)において、毛(英語で Mao )は「武力で政権を打ち立てる(槍杆子里面出政権)」方針を提案、国民党との武装闘争が党の方針として決議された。

さらに毛は臨時中央政治局候補委員に選出された。

「八七会議」の決議を受けた毛は、9月9日、湖南省で武装蜂起するも失敗(秋収起義)、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。

なおこの根拠地に潜伏中、江西省出身の女性・賀子珍と暮らすようになり、1929年には長女が誕生している。

1927年11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。

1928年7月、第6回党大会において中央委員に選出。

井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。

毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。

しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。

国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。

毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。
>>>ここを英語で
A strategy of hair was criticized by the party guidance division which was the Soviet studying abroad set center,
and hair was deprived of command of an army in October, 1932.

また、毛(英語で Mao )が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。

さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。

毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。


毛沢東 part3 教師時代 [まゆみのえいご教材]

教師時代

1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業。

1919年の五・四運動期に、教授で恩師の楊昌済(のち、義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。

楊の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大釗とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。

毛(英語で Mao )は同大学の聴講生として登録し、陳独秀、胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。

上海に滞在中の毛(英語で Mao )は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。
>>>ここを英語で
Mao where I'm staying in Shanghai worked hard at reading as much as possible to take communism theory in.

翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。

この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。

父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。
>>>ここを英語で
You say father's legacy and the income by the business were a considerable one, and that Mao Zedong's life was stable.

同年、楊の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。

なお、第一次国共合作が破れ、中国共産党と中国国民党の戦いが激しさを増していた1930年10月、蒋介石率いる国民党軍は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。

楊開慧は殺害され、その後、息子たちは親類に送り返されている。