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変なのっ!いろいろ帝国の建設 [いろいろ出会い]

犬井まゆみ「変なのっ!いろいろ」帝国の建設
1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによって、テムジン、チンギス・カン(英語:Genghis Khan)として即位する。
1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカを遂に捕えて処刑した。
やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて出合い服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル系サイトの支配下に入った。
翌1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、九脚の白いトゥク(ヤクやウマの尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物、旗鉾。)を打ち立て、諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開いた。
チンギス・カン(英語:Genghis Khan)という名はこのとき、イェスゲイ一族の家老モンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。「チンギス」という語彙の由来については確実なことは分かっていない。
元々モンゴル語ではなくテュルク語から来た外来語だったとみられ、「海」を意味するテンギズ (tenggis / tenngiz) を語源に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。
チンギス・カン(英語:Genghis Khan)は、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる出合い階層に編成した。
最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。
また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。

戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル系帝国軍の将軍となるよう定められた。
各隊の兵士は遠 征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3 - 4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。
そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル系サイト軍に与えていたとみられる。
千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン(英語:Genghis Khan)直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。
このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。
チンギス(英語:Genghis )の築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。
クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との出合い戦争を起こしていた。
堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴル系の宗主権を認めさせていた。
さらに同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル系サイトの人民の協力を得ることに成功する。

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「いろいろチンギスハーン」テムジン(英語名:Temujin)諸部族の統一 [まゆみのえいご教材]

犬井まゆみ「変なのっ!いろいろチンギスハーン」英会話 教材
テムジン(英語名:Temujin)諸部族の統一
メルキトによる襲撃の後、ジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となっていった。
テムジン(英語名:Temujin)は振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジン(英語名:Temujin)のもとに投ずるようになった。
テムジン(英語名:Temujin)はこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。
あるとき、ジャムカの一 族がテムジンの領地の馬をひそかに出合い略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。
ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとバルジュトの平原で出合い会戦した。
十三翼の戦い(1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト系サイトと同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。
ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジン(英語名:Temujin)のもとに投ずる部族が増える。

さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト系サイト部で出合い内紛が起こってト グリルが王位を追われ、その兄弟ジャガ・ガンボがテムジンのもとに亡命した。
トグリルはケレイト王国を追われてからわずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したと伝えられるが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って出合い合流してきた。
テムジンとトグリルの両者は、トグリルがテムジンの父イェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の出合い関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトグリルはケレイトの王位に復した。
さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った。
この功績によりテムジン(英語名:Temujin)には金から「百人長」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。
また、同時にトグリル系サイトには「王」の称号が与えられ、オン・カンと称するにようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジン(英語名:Temujin)の間に大きな身分の格差があり、テムジン(英語名:Temujin)はオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。
テムジン(英語名:Temujin)は、同年ケレイトとともにキヤト系サイトの中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。
翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。
1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援 軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルをフルンブイルに打ち破った。
1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジン(英語名:Temujin)の宿敵ジャムカを盟主に推戴した。
しかしテムジン(英語名:Temujin)は、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させた。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、オン・カンの長男イルカ・セ ングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジン(英語名:Temujin)はオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。
同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると出合い計略を用いてケレイト系サイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を出合い急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジン(英語名:Temujin)の手に落ちた。
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チンギス・ハーン(英語:Genghis Khan)の先祖との出合いと生い立ち [まゆみのえいご教材]

「変なのっ!いろいろ チンギス・ハーン」英会話 教材

チンギス・ハーン(英語:Genghis Khan)の先祖との出合いと生い立ち
チンギス・ハーン(英語:Genghis Khan)の生まれたモンゴル部はウイグル系サイト可汗国の出合い解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、11世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民であった。
チンギス・ハンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の出合い系令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼、すなわち灰色斑模様の狼系」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。
ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から出合い使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。
チンギス・カンが出合い所属 するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。
ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリヤンカイ、ジャライルといった異系サイトを服属させて大きな勢力となった。
やがて、ボドンチャルから7代目とされるカブルがモンゴル諸部族で最初のカン(ハン、ハーン)の称号を名乗り、カブル・カンの子孫はキヤト氏を称するモンゴル部の有力家系となった。
チンギス・ハン(英語:Genghis Khan)の父イェスゲイ・バアトルは、カブル・カンの孫で第3代カンとなったクトラ・カンの甥である。
チンギス・ハン(英語:Genghis Khan)はそのイェスゲイの長男としてこの世に出合い生まれ、テムジン(英語名:Temujin)という名を与えられた。
『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと出合い戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たという。
『元朝秘史』などによると、この時ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン(英語名:Temujin)」と名付けたと伝えられる。
テムジン英語名:Temujin)の生年との出合いについては、当時のモンゴル系サイトに歴史を記録する手段が 知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとは分からない。
父イェスゲイは、カブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男という出自でキヤト氏の中では傍系に属したが、バアトル(勇者)の称号を持つ有力者で、モンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイトの王トグリル(またはトオリル。のちのオン・カン)とも出合い同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで、一代で急速に勢力を拡大した。
また、『元朝秘史』によるとテムジン英語名:Temujin)が9歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁の出合い探しに出かけた逸話が載せられ ている。この時、途中で立ち寄ったコンギラト系サイト部族の本家筋の人物だったらしいデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出合い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだと伝えられる。イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻ったという。
しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。
テムジン英語名:Temujin)は、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻された。
幼い子供たちを抱えてイェスゲイ家の管理権を握った母ホエルンは、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。
テムジン(英語名:Temujin)が成人してくると、モンゴル系サイトの第2代アンバガ イ・カンの後裔でキヤト氏のライバルだったタイチウト氏の人々は、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを出合い捕らえて自分たちの幕営に抑留した。
テムジン(英語名:Temujin)はこの絶体絶命の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた牧民ソルカン・シラの助けによりようやく脱したという。
成人すると、今度はモンゴル部の宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を出合い襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど辛酸との出合いを舐めた。
このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者でもあったケレイト系サイトのトグリル・カンや、モンゴル系サイト内のテムジンの盟友(アンダ)であるジャジラト氏のジャムカといっ た同盟者たちだった。
『元朝秘史』は、このような境遇の中、ある事件により偶然テムジン(英語名:Temujin)と出合い友人になったアルラト氏のボオルチュ、先祖代々テムジン(英語名:Temujin)の家に仕えていたウリヤンカイ氏のジェルメ、ソルカン・シラの息子チラウン、チンベ兄弟らは後のモンゴル帝国の有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友(ノコル)として彼のもとに仕えるようになった事情を語っている。
後にジェルメはジェベ、クビライ、スブタイの3人と共に「四狗」と呼ばれる重臣となる。
「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。
ボオルチュやチウランも後にボロクル、ムカリと共に「四駿」と呼ばれる重臣となる。
「四駿」は戦ではチンギス ・カン(英語:Genghis Khan)の傍から片時も離れず出合い続け護衛する役目を持つ。
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